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web『たまてばこ』特集

ひげうさぎ文章教室

作文が苦手な子どもたちに救いの神となる連載、かな




     





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「ひげうさぎ文章教室」開講

 作文が嫌いだった。
 原稿用紙の3行目に「今日、ぼくは」と書く。次に読点(、)をうつかうたないかで迷い、その先が書けなくなる。あとは時間がくるまでひたすらマス目とにらめっこ。
 小学校のころ、それほど作文が苦手で苦痛で、嫌いだった。

 「書く」ことに縁の深い職業についた。毎日のように学級通信を書き、毎日のように子どもたちに日記を書かせてきた。
 そんなことを15年以上続けてきてつかんだ“作文のコツ”がある。知りたいでしょう。

 いっぺんに書くのはもったいない。なにせ15年の秘伝だ。もったいぶって小出しにしていく。
 読みたい人、『web たまてばこ』をときどきのぞいてください。

web『たまてばこ』 No.040 2000-11-15-Wed


「ひげうさぎ文章教室」閉講

 一文一義。

 枝葉のことはさまざまあれど、「ひげうさぎ文章教室」の奥義はこれにつきる。
 一つの文には一つの命題を盛り込む。複文や重文にせず、単文を積み重ねて文章を組み立てること。これさえ守れば、だれでも達意の文章が書けるようになる。

 言いたいことはこれだけ、これにて閉講、では実も蓋もない。「一文一義」で文章がどう変わるか、子どもの日記を例に挙げる。

 きょうクラブでしょうぎをやってまけてよえ〜って思った。せめてさいごにかならずまけてショックでこんどはぜったいかってつよくなるぞって思った。


 クラブでしょうぎをやった。まけた。よえ〜。はじめはせめた。さいごにかならずまけた。ショックだった。こんどはぜったいかつ。つよくなるぞ。


 すっきりしたでしょう。2つの文を8つの文に分けただけ。「一文一義」に忠実になることが文章上達の第一歩であり、ゴールでもある。
 あっけないほど簡単なこと。原則とはえてしてシンプルなものだ。

*「一文一義」は宇佐美寛先生のご論考に学んだことば。


web『たまてばこ』 No.044 2000-11-19-Sun


500円玉

「文章教室」第3講

 イチブンイチギ。子どもには理解しにくいコトバだ。ストレートに話したのでは意味の伝わらない子もいる。
 そこで、次のように言う。
「“。”を500円玉だと思いなさい。4個なら2000円、10個あれば5000円。“。”をたくさん使うようにしなさい」

 一つの文にいくつものコトガラを盛り込んではいけない。ゴチャゴチャした文はわかりにくい。複文、重文を単文の積み重ねに変えなければならない。
 どうすればよいか。句点(。)を多くすればよい。句点を500円玉とみなし、合計金額が高くなるように書く。日記なら5000円=文10個で合格とする。

 すると、子どもたちは毎日の日記のおしまいに「今日は8500円」などと書いてくる。あそび感覚で単文を積み重ねて書くようになる。

 先生が3時間目に作文の書き方をおしえてくれた。いろいろきいた。すごいのがいっぱいだ。
 とくにすごかったのは、ぼくみたいにだめな子の文を「。」を多くしていい文にしている先生のことだ。感しんした。先生はすごい。さすがきょうしだ。
 先生のおうごんのずのうがほしい。やっぱりすごい。


 第2講で日記を一文一義に改変してみせたことを書いたもの。“だめな子の文”もそれなりに読める文章になる。
 この子は“。”が9個で4500円。4つめの文を二つに分ければ5000円、ノルマが達成できる。
 ただし、「おうごんのずのう」は買いかぶりすぎ。(^m^;

*「500円玉」は野口芳宏先生のご論考に学んだ方法。


web『たまてばこ』 No.049 2000-11-24-Fri


透明人間

「文章教室」第4講

 K川の方を歩いていた。10羽くらいのユリカモメが飛んでた。真っ白なじゅうたんのようだ。
 「ユリ」という花がお母さんやお父さんはすごく好きだ。それで私の名前を「小さなかわいらしいユリのように」といって“小百合”とつけたらしい。自分の名前が小百合でよかった。
 最初、お母さんはわたしの名前を「あやめ」にするつもりだったといってる。でも、祖父が、
「“あやめ”という名前はまんざいしのようだ」
といって変えたのだ。
 今、ユリの花は高いので、1本1000円〜1500円もするそうだ。

さゆり


 “さゆり”さんの日記。一文一義を守って書いている。値段にして4500円。そのほかに教えたいくつかのこと(後述の予定)にも忠実にしたがっている。文章の表現としてかなりいい線をいっている。

 しかし、読者が感銘をうけるのは文章の表現法ではないだろう。ユリカモメをまくらにふって自分の名前“ゆり”の由来に言及し、“漫才師”で落としたうえで、名前への自負を暗示する値段でしめくくる。その内容にまず惹かれるはずだ。

 文章は内容と形式とから成り立つ。「一文一義」は形式の部分。いくら形式を整えても、内容がともなわなければ“透明人間”になってしまう。服は着ていても中身は空っぽということ。

 「文章教室」であつかうことの大部分は“服”、つまり文章の飾り方のほう。その文章に何を盛り込むか、生活の中から何を切り取って書くか、服を着ている“人間”のほうはそうかんたんに教えられるものではない。あえて言えば...。
 もったいぶって次講につづく。

web『たまてばこ』 No059 2000-12-04-Mon


あえて言う、三つの要因

「文章教室」第5講

 音楽会の翌日、クラス全員が音楽会のことを日記に書いてきた。子どもたちにとってそれだけインパクトの強いできごとだったのだろう。
 しかし、書いてある内容は千差万別。音楽会のどこを切り取って書くか、前項の比喩で言えば文章に“人間”がどうあらわれているか、大きな違いがあった。

 文章の“人間=内容”を豊かにする要因は三つ。
  その1 経験
  その2 読書
  その3 会話
 それぞれに“豊富な”という形容詞がつく。

 部屋にとじこもっている子よりも、野山をかけまわり、暗くなるまで遊びまわる子のほうが、ユニークな発想ができる。行ってみる、やってみる、聞いてみる...。
 直接には経験できないことも、本の中で体験することができる。さまざまな心の動きに同化もできるし、逆に感情を客観的にみることもできるようになる。
 一方通行のおしゃべりではない会話。ことばのキャッチボールがどれだけできるか、どれだけしてきたか。“書きコトバ”につながる“話しコトバ”の世界。

 乳幼児期からの(もしかすると胎児期からの)長い間の、そして少しずつの積み重ねが、小学校期の子どもが書く文章の内容≠ノあらわれる。飾り方=形式だけ整えても、いい文章にはならない。

 日記を毎日書く。3か月、6か月と休まず続けて書く。書き続けて上達していく子に共通してみられるのが、上の三つの要因。これまでに担任してきた200人以上の子どもたちから学んだ事実である。

web『たまてばこ』 No.062 2000-12-07-Thu


使ってはいけない! 〜その1

「文章教室」第6講

 “今日”ということばを使ってはいけない。

 これが日記指導の第一歩である。

 「今日〜」とくれば「〜をしました」とつながる。「今日は〜」とくれば「〜でした」と書かざるをえない。日記版“係り結び”の法則。大いなるマンネリ化の序章。
 そこで発想を逆転させる。「今日」と書かない日記の登場となる。
(“日記”だもの、“今日”のことを書いているの、あたりまえでしょ)

 「今日〜」と書き出せないとなると、工夫せざるをえない。何を書こうか、どう書こうか、頭をひねる。それが新たな発想を生む。

 ここ数日のクラスの子の日記から、書き出しの一文をいくつか。

  A.キラキラキラキラ、ライトがあたってまぶしい。
  B.いつものように『たまてばこ』がくばられた。
  C.歯がへんなところからはえていた。
  D.きねんすべき日がやってきた。
  E.「マラソン大会がんばれ」「とびばこがんばれ」この2つのことばがうれしい。


 魅力的だ。次に何がくるのか、だれだって続きを読みたくなる。gaiax の「新着日記」の一覧にこういう文が並んでいたら、CMバナーなんかつけなくても訪問者数の増大まちがいなし。

 ちなみに、これまで2か月書いてきた“ひげ”の『web たまてばこ』では、「今日」を一度も使っていない、はず。

web『たまてばこ』 No.075 2000-12-20-Thu


使ってはいけない! 〜その2

「文章教室」第7講

 “ぼく・わたし”ということばを使ってはいけない。

 これが日記指導の第ニ歩である。

 “思う”ということばを使ってはいけない。

 これが日記指導の第三歩である。

 きょう、社会見学でした。ぼくはいんしょうにのこったのは検査です。かなりスピードがでてて、100キロぐらいといって、もっとでてると思いました。


 社会見学に行った。いんしょうにのこったのは検査だ。かなりスピードがでていた。100キロぐらいといっていた。もっとでてるんじゃないか。


 「今日」のことを書いているのだし、「ぼく・わたし」のことを書いているのだし、「思った」ことを書いているのだし...。
 あたりまえのことは書かない。あたりまえのことばも使わない。なぜか。“書く”とは“発見する”ことだから。

 これで三歩前進した。たった三歩だが、守ることができれば大きな三歩になる、はず。


 これまでのまとめ。

「一文一義で書く」
「今日、ぼく・わたし、思う、を使わない」


 すると...。
 効用その一。文章が引き締まる。
 文末が言い切りの形になる。敬体(ですます体)も自然に常体(だである体)に変化してくる。あいまいさが消え、ふにゃふにゃした文章がくっきりと粒だってくる。上の例文にみるとおり。

 効用そのニ。発想が広がる。
 使いなれたことばに頼ると、陳腐な内容しか思い浮かばない。違うことばを使おうとすれば、あれこれ考えるようになる。前講の例にみるとおり。

 3学期最初の日記から。

 ひさしぶりにみんなにあった。少してれる。いつもなら「おはよー」と言うのに。のどの真ん中辺まででてきてるのに、つまってる。
 10分後...ふつうにもどった。つまるどころか、カエルがえものを口に入れるしゅんかんのように、ヒョイと言ってしまう。
 あしたはもっとしゃべりそうだ。

男爵


 新年最初に登校した日のことが、“あたりまえ”ではないことばと、“あたりまえ”ではない視点とで書かれている。担任としては、“もっとしゃべっ”てほしくはないけれど...。

*「“思う”を使わない」は井関義久先生の講義で学んだアイディア。


web『たまてばこ』 No.099 2001-01-13-Sat


見たこと≠書こう

「文章教室」第8講

 手あかのついたことば、思考停止におちいる使いなれたことばをことごとく排除しよう。ありきたりな日常の中に隠れている非日常≠発見するために。
 「使ってはいけない」シリーズはこれからもまだまだ続く。

 しかし、日記を書くときの“三種の神器”「今日、ぼく・わたし、思う」が使えないだけでもおおごとだ。小学校時代の“ひげ”なら、ただの一文字も書けなくなってしまう。
 では、どうしたらよいか。何を書くか。

 人間のうけとる情報の8割は視覚からのものだという。残りの2割が聴覚、嗅覚、味覚、触覚。第六感というのもあるかもしれない。
 いずれにせよ、情報のほとんどは“目”から入ってくる。これを利用しない手はない。
 そう、“見たこと”を書くのだ。“したこと・思ったこと”ではなく“見たこと”を。

 鉛筆がすすまない子に「よく考えて書きなさい」というアドバイス。何をどう考えていいかわからないから書けないのだ。
 “ひげ”先生、助けて!
「よく見なさい。見たことを書きなさい」

 「遊ぎ王4」を買った。レジの人にたのんだ。
 レジの人はながいゆびでボタンを押した。かおがしんけんだった。
 レジの人が「4536円」といった。お母さんはサイフから10536円をだした。おつりが6000円もどった。
 ぼくはじぶんのゆびをみた。ぶっとかった。レジの人のゆびとくらべた。ぼくのほうが太かった。自分はこんなにゆびが太かったことにきづき、がっかりした。

ボー助


 ゲームを買いに行ったことを書く。買って、遊んで、おもしろかったです、またやりたいと思います。そういう記述からどう脱却するか。
 キーワードは“見たこと”だ。
 よし、見てみよう。レジの人の顔、指、お母さんのサイフ、自分の指...。見ているうちに気がついた。自分の指が太いことに。
 これこそ“考える”ことではないか。

 “書く”とは“発見する”こと、“発見する”にはよく“見る”こと。
 “見たこと”を書くと日記が変わる。

*「見たことを書く」は有田和正先生の「見たこと帳」、上條晴夫先生の「見たこと作文」に学んだ実践。

web『たまてばこ』 No.106 2001-01-25-Thu


描写しよう

「文章教室」第9講

 “見たこと”を書くとは、説明ではなく描写せよ、ということ。
 順序だててわかりやすく説明するのはむずかしい。見たことを書くのは容易だ。

 ただし、目に見えるすべてのものを描写するのは無理なこと。ある部分を切りとらなければならない。その切りとる作業こそ、“考える”ことにほかならない。

 注意してほしい。「見える」ではない。「見た(=見る)」である。ぼーっとしていては「見た」ことにならない。ぼーっとしていたら「見える」だけ。
 対象に自分からはたらきかける。受身ではいけない。能動的なはたらきかけが必要なのだ。
 それができれば、「聞いたこと」も「嗅いだこと」も「味わったこと」も「触ったこと」も、そして「感じた」ことも、書けるようになる。

 おばあちゃんの納骨の日だ。みんなが多ま墓地に集まった。
 今日はとてもあたたかだった。お母さんが、
「冬の初めにこんなふうにあたたかいおだやかな日を小春日和≠ニいうんだよ」
とおしえてくれた。
 とてもとても広い多ま墓地の中は、木がものすごくたくさんあった。天まで届くようにスーッとのびた木はてっぺんがまぶしかった。何十年も何十年もここでどっしりかまえている太い木はたのもしかった。まっ赤に葉の色をそめた木はおしゃれだった。
 空がまっ青だった。空気があたたかだった。おばあちゃんはここでゆっくり休むのだろう。
 大好きなおばあちゃんのことをいろいろ考えた。多ま墓地の公園の中を、みんなも歩きながらおばあちゃんのお話をたくさんしていた。
 木のにおいがいっぱいした。何だかむねがポッとして、やさしい気持ちになった。

しろへび


 “木”に焦点をあてておばあちゃんの納骨のことを書いている。“かなしい”なんてひとことも書かずに悲しさ・哀しさが伝わってくる。
 その秘密は“見たこと”だ。“かなしい”目で見たことが“かなしさ”を表現する。“かなしさ”の押し売りをせずに、“かなしさ”を伝えることがてきる。

 それだけではない。上の作文では、五感のうち使っていないのは味覚だけ。聴いたこと、嗅いだこと、肌で感じたことまで書いている。それがすべて“かなしさ”に収斂する。

 五感をフルにはたらかせて描写するから臨場感が生まれる。描写された文章を読むと、語り手の目に同化できる。その場にいるような錯覚におちいる。だから語り手の気持ちが伝わるのだ。

 それにしても、これだけ書ければりっぱなもの。5年生にして師匠を超えてしまった。

web『たまてばこ』 No.117 2001-02-05-Mon


使ってはいけないのは?

「文章教室」第10講

 ここまでのまとめを子どもの作文から。

 「ドキドキの〜と」を書く時、昨日までとちがってきんちょうする。文章をきちんと書くことは大変なんだぁ。
 「今日」と「ぼく」「私」なんて、いつも使っている言葉。いつもは「今日は──」と書きはじめることが多かったから、書き出しからどう書こうかなやんでしまった。
 「── 。」と、最後に丸で終わるまでの文には一つの内容しか書いてはいけないそうだ。今まで「──で、──で...」と、点で長い文をつなげて書いていました。「。」を多く書くためにも、だらだら書かないで、区切って書くようにしよう。
 一文一ぎ。初めて聞いた言葉です。

ぶきっちょ


 これは第7講までを話したときの日記。内容がコンパクトにまとめられている。内容だけでなく、形式上のポイント“一文一義”を守ろうとしているし、“使ってはいけない”言葉の使用も避けている。
 数回の話を聞いただけでこれだけ文章が変わってくる。この子に力があるのもたしかだ。


 じつは教室では、第7講のあと、第8、9講の「見たこと」の前に、もう一つ別の話題をとりあげていた。それは...。

 1時間目の体育の時間に、マラソン大会で走るコースを歩いた。下見をしてあるいた。
 まわりのけしきがきれいだった。しゃべって歩いていた人もいた。しゃべんないで歩いていた人もいた。
 あー、こんなに走るのか。あーあ、マラソン大会やだなー。


 上の日記を題材にした。「今日」「ぼく・わたし」「思う」は使っていない。一文一義も守っている。話をよく聞き、そのとおり忠実に書こうとしている。
 しかし、この日記の中に、もう一つ“使ってはいけない”コトバがある。それは何か。
 子どもたちに考えさせた。“正解”が出てきた。それをもとに、話は「見たことを書く」にすすんでいく。

 読者のみなさん、いかがでしょう。上の日記の中にある“使ってはいけない”コトバとは? “ひげ”がこだわったコトバとは?

web『たまてばこ』 No.125 2001-02-13-Tue


使ってはいけない! 〜その3

「文章教室」第11講

 1時間目の体育の時間に、マラソン大会で走るコースを歩いた。下見をしてあるいた。
 まわりのけしきがきれいだった。しゃべって歩いていた人もいた。しゃべんないで歩いていた人もいた。
 あー、こんなに走るのか。あーあ、マラソン大会やだなー。


 上の日記にある“使ってはいけない”コトバとは何か。それは「きれい」だ。

 この子にとっての「きれい」とはどういう状態なのか。景色の何がどのように“きれい”だったのか。紅葉の色か。空気の透明感か。山の深さと鳥のさえずりとのとりあわせか...。
 読者がもしその場にいっしょにいたとすれば推測できないこともない。しかし、その場にいない読者にとっては、ただ「きれいだった」と書かれても感動は伝わってこない。本人だけが“きれい”という感動にひたっている。
 感動の押し売り。そう、押し売りだ。

 「きれい」「すごい」「かわいい」「楽しい」「おもしろい」「つまらない」「悲しい」「ひどい」「寒い」...。わかったようでいて、わからないコトバの数々。
 形容詞に限らない。「たいへん」「たくさん」「いろいろ」「びっくり」「がんばる」...。ここにも、わかったようでいて、わからないコトバの数々。

 何をあらわすか実体の不明な“大きなコトバ”=抽象の度合いの高い修飾語を排除しよう。“きれい”だと感じたら、それを具体的に書いてみよう。見たこと、聞いたこと、触れたこと...。五感をフルにはたらかせ、描写しよう。
 それができれば、“きれい”と書かずに“きれい”が伝わるのだから。

 “きれい”な夕焼けを描写した秀作。

 ルミネに買い物にいった。
 帰り、4時ごろ、空を見た。上の方は青、下の方(西)は赤。白いパレットに青と赤のえのぐがだしてあるみたいだった。青色と赤色の間は、白いパレットの色がすけていて、白だった。ふつうのえのぐだとむらさきになる。けど、空のパレットはちがうみたい。
 またちょっとしてから見た。青がこくなって、むらさきに近くなっていた。巨人か何かが赤えのぐからちょっともってきたのかな。夜になれば、あい色、黒のえのぐが出されるかな。朝は黄色、それに白、水色、オレンジかな。
 空の色もいろいろあるな。

さくらんぼ


 ここまで書き込めば「夕焼けがきれいでした」は不要になる。不要なのに読者には“きれい”が伝わってくる。最後の「いろいろ」もいらないほどだ。おみごと。

web『たまてばこ』 No.132 2001-02-20-Tue


使ってはいけない! 〜その4

「文章教室」第12講

 まずは日記から。

 今日、私はドッジボールのしあいでした。でもけっかはまけてしまいました。私は9はんで、相手チームは11ぱんです。私は11ぱんにうらみをもちました。Yちゃんも9はんで、Yちゃんはしんぱんにうらみをもったそうです。
 でも私は去年ゆうしょうしました。やっぱゆうしょうはずーっとかっていたからくやしさはかんじなかったけど、今日はまけてしまったので、くやしさがすっごーくかんじられました。
 でもすっごーくくやしくてたまりません。やっぱりもう1回しあいしたいし、11ぱんのNに「ぼろがち」とか言われて、ムカツクー。でもぜんぜんぼろがちじゃないのに。だって3人さぐらいのちがいなのに。


 文中に使われている目障り耳障りなコトバに気がつくだろうか。わずか300字ほどの文章の中に4回も使われている“でも”だ。
 今回の攻撃目標は、“でも”をはじめとする「逆接のコトバ」である。

(“でも”とほぼ同様のはたらきをするコトバに“けれど”“だけど”“しかし”“だが”“〜が”がある。となると、上の日記には逆説のコトバがもう一つ使われていることになる。2段落め2文めにある“けど”がそれである)


「Aである。でも Bである。」

 この文で強調したいのはAかBか。

 逆説のコトバでつながれた二つの命題があったとき、強調されているのは一般に逆説のコトバの後のほうである。例文でいえばBのほう。
 つまり、書き手は、伝えたいBをより強調するためにAを引きあいにだし、逆説のコトバでつなぐのである。それは高度な作文技術なのだ。


 冒頭の日記を逆説のコトバに目をつけて分析する。

【試合があった(=勝ちたかった)】
でも
【負けた(=くやしかった)】
でも
【去年は優勝した(くやしくなかった)】
けど
【今日は負けた(くやしかった)】
でも
【くやしかった】

【「ぼろ勝ち」と言われた】
でも
【「ぼろ勝ち」じゃない】

 後者の“でも”はセオリーどおりに使われている。ひとまずおいておこう。
 前者の“でも&けど”をたどってみる。結局のところ、最も伝えたいのは何なのか。書き手の心を親切に推測してやると、おそらく「負けてくやしい」なのだろう。
 その親切な読み手は、親切心ゆえに結論に行き着くまでに何度も逆転を味わわされる。負けたのかと思うと、去年の優勝の思い出がよみがえり、なんだ、それが言いたかったのかと安心していると、ふたたび「負けてくやしい」とひっくりかえされる。何回転もするジェットコースターに乗っているようなめまいを感じてしまう。

 意図的に逆説のコトバを使うのなら、言いたいことを強調して伝えるのに大きな効果がある。しかし、思いついたことをずらずら書き連ねていく過程で“でも”を連発すると、何を最も強調して伝えたいのかがかえってわかりにくくなってしまう。行き着く先は堂々めぐり。

 だから、文章講座入門期の子どもたちに、
「“でも”を使ってはいけない」
 と命じるのである。

*上の文章に1回だけ、意図的に“しかし”を使ってみた。いかがでしょう。


web『たまてばこ』 No.136 2001-02-24-Sat


中間まとめ

「文章教室」第13講

 今回も日記から。

 キラキラキラキラ。ライトがあたってまぶしい。
 ピアノのはっぴょう会があった。私は11番だ。
 始まる前はぜんぜんきんちょうしていなかった。そのへんを走ったりおどったりしていた。
 「ブー」とげいじゅつかんの小ホールの中にひびいた。始まりのあいずだ。始まると、ドキドキドキドキ、きんちょうしてきた。ほかの人がもういつのまにかぶ台の上でピアノをひいている。
 ドキドキする。私の手を見た。しぜんに手と手があわさっていて、いのってた。
 私の番だ。きんちょうする。これがあたりまえ。
「11番、りんごさん」
とよばれた。心の中では「へいき、だいじょうぶ」とつぶやいていた。きんちょうしていたので、きゃくせきの方は見なかった。下ばっかり見ておじぎをした。おじぎをするとどうじに、雨のような拍手が出た。
 1回しんこきゅうをしてから始めた。ひきはじめてからすぐに顔が赤くなっていくのがわかった。
 高い音をだすときに、ちらっときゃくせきの方を見た。1番前にすわってるおばさんたちの顔が見えた。おばさんの目はしんけんだった。なんかはずかしい。
 T小の音楽会の時は5学年全いんだったからそんなに目だたない。今日はぶ台の上でひとりぼっち。少しまちがえちゃったー。

りんご


 臨場感あふれる文章の筆者は“りんご”さん。じつは第12講の「でもの排除」で引用したドッジボール大会の日記を書いた子である。正真正銘の同一人物。
 違いがあるとすれば、書いた時期。両者のあいだに6か月の時差がある。もちろんドッジボールのほうが前。
 教室で「ひげうさぎ文章教室」を受講し、日記を200日書きつづけた成果がみごとにあらわれている。通販グッズの使用前・使用後のようだ。もちろん、本人の努力の結果。おみごと。


 それでは日記をもう一編。

 やっぱり今日も先生は作文の書き方の説明をした。
 みんなの作文を聞いていると、先生の説明したことがきちんと守られているような気がした。確かにそれらはその時の様子がパーッとうかぶ。だからそんな作文は聞いているとおもしろいし、楽しい。
 私も、読んでいる相手がワクワクするような作文を書きたい。

「“私は”や“ぼくは”などの主語を多く書いてはいけない」
「まる一つを500円玉として、5000円以上の作文を書く」
「“思った”や“思う”は書かない」
「“でも”や“が”などのひっくり返す言葉は使わない」
「“うれしい”や“きれい”などのあいまいな言葉は、必ず具体的な説明をつける」

・・・などと、先生は私達の作文にむずかしい注文をつけた。自分の文章には、先生が注意したことがたくさんあてはまっていた。ドキッとした。
 こうして書いている今の文章も、しょうじき言うととてもきん張して書いている。書きたい気持ちは頭の中にぷーっとふくらむけれど、注意する点を気にすると、ふくらんだ気持ちがふうせんがしぼむようにプシューッとなって、うまく書けない。
 これからまだ続く「ドキドキのーと」が練習になって、たくさんの文章を書いていくうちに、いつかは先生がうっとりするようなすばらしい作文をかけるだろう。そう思うと希望がもてる!

しろへび


 過去12講のポイントを網羅してあまりある文章である。“一文一義”で文をつみあげること、“使ってはいけない”コトバが4種類あること。
 これだけのことが理解でき、的確に正確に作文することができるとは。おそれいりました。

web『たまてばこ』 No.137 2001-02-25-Sun