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web『たまてばこ』特集

たいした勉強してないが

1年生にとってほんとうに大切なことはなにか



     





“たいした勉強”って?

たいした勉強してないが 1

 ときどき、こう聞かれることがあります。

「うちの子、勉強についていけてますか?」

 うーん、「勉強についていけてるか」かー。何と答えたらいいかしら。
 いろいろな考えが頭をかけめぐったあげく、
「勉強と言ったって、まだ“たいした勉強”をしているわけじゃないですからねー...」
 と、苦しまぎれの返事をしてしまいます。


 また、こんなことを言われることもあります。

「1年生の勉強といってもたいした勉強じゃないでしょうから、とにかく学校に楽しく行って、お友だちと仲良くしてくれていればいいんですよ。うちの子はどうですか?」

 うーん、「ひらがな」の練習をすることも、1から10(ほんとうは0から9)まで数えることも、歌も縄跳びも鉄棒も、たしかに“たいした勉強”じゃないよなー。


 だが、待てよ。
 どちらもそのとおり“たいした勉強”ではないのだけれど、はたしてそう言って安心してしまっていいのだろうか?
 自分でも「たいした勉強ではない」と言っておきながら、少しばかり疑問を持ってしまうのです。

 疑問その1。
 ひらがなの練習も数字も歌も縄跳びも鉄棒も、1年生にとってはほんとうは“たいした勉強”なのではないかしら。
 現に、今日のひらがなの「や」の字が初めからまともに書けた子はごく少数でした。多くの子は、自分の名前に「や」の字がついている子でさえ、「か」のような「や」を書いていたのです。
 これまでの自分の字とお手本の「や」とをくらべ、どこがどのように違うか考えて、鉛筆を持った指先に注意を集中し、整った字体の「や」が書けるようになる。これはこれでりっぱな“勉強”なのではないでしょうか。

 縄跳びをする。それまでできなかった「足切り」が、練習するにつれて2回3回と続けて跳べるようになる。二重跳びに挑戦し、なんどもなんどもジャンプしているうちに、あるとき縄がビュンビュンと音をたてて足の下を2回とおってくれる。このような、自分の思うように自分の身体をコントロールできるようになることも、たいせつなたいせつな“勉強”なのではないでしょうか。


 帰宅したお子さんが、
「今日ね、『や』の字を習ったんだよ」
 と話しかけてきたときに、
「まだ『や』なんてやってるの? 進度がおそいわね。早く“勉強”してくれないかしら」
 とか、
「あなたは 〜 で習ったから、もう書けるでしょる見せてごらんなさい...なによ、この字は!」
 などというような対応はなさっていませんよね。

「お母さんは『や』の字があんまり上手じゃないから、どうやって書くと上手に書けるのか、教えてくれる? ...そう。とってもいいこと習ってきたわね。お母さんも勉強になってよかったわ。ありがとう」
 というような対応を毎日のようにしてくだされば、教室での“勉強”が“たいした勉強”になっていくと思います。
(「疑問その2」は次号以降に連載の予定)

*初出『日刊ひげうさぎ』(1993年度1年1組学級通信)No.044-1993-06-08


web『たまてばこ』 No.404 2003-06-21-Sat


指示を聞きとる

たいした勉強してないが 2

 前号に続き、疑問その2

 百歩(いや、百五十歩ぐらいかな)ゆずって、いま1年生が学習している内容が“たいした勉強”ではないとしても、だから適当に(気楽にという意味で)教え教わっていいのだろうか?
 「このくらいかんたんなことならこの程度でわかるだろう」と安易に妥協して先にすすめていっていいのだろうか?
 内容こそ“たいした勉強”ではないかもしれないけれど、なにかとても意味のあることをしているのではないだろうか?

 これらは疑問の“か”であるよりも反語の“か”であって、結論からいえばぼくの考えは、
《内容を考えれば“たいした勉強”ではないとしても、やっていることすべてがべつの意味で“たいした勉強”であるにちがいない》
 です。

 もうすこし言えば、いま教室でおこなっているすべてのことは、これから出てくるであろう“むずかしい勉強”をさほど苦労せず理解し身につけられるだけの“頭づくり”“身体づくり”をしているのだ、となります。


 “頭づくり”“身体づくり”とはどういうことか、具体的に三つのことを考えているので、順に書いていきます。

 第一に大切な“頭づくり”“身体づくり”は、
《指示のことばを的確に聞きとり、そのとおりに行動できること》
 です。

 図書室で、ほんの数十センチ目の前に4、5人の子をならべ、貸し出しカードの書き方を説明したことがありました。

「カードが2枚あるね。本のうしろから出した青いカードと、自分の名前が書いてある茶色のカード。まず茶色のカードに...」

 このときすでに、青いカードに記入しようとしている子がいました。青と茶色をはっきりと区別させてから、

「茶色のカードのいちばん左の四角の中に、本の背中についているしるしを書きます。あなたのは『E』で、こっちは...」

 みんなに正しく記入させてから、
「いましるしを書いたとなりの細長い四角の中に、こんどは借りる本の名前を書きます」

 これでさっと書きはじめる子はいいのですが、どうしたらいいかわからずに右の子のカードをのぞきこみ、左の子のカードをのぞきこみ、そのあげく左の子の書いたのと同じ本のタイトルを自分のカードに書きこもうとしている子がいたりして...。


 距離数十センチ、わずか4、5人を相手にしてすらこの調子なのです。距離数メートル、37人を相手にした教室で《指示を的確に聞きとる》ことがどれだけ大切か、おわかりになるでしょう。

 タイルをつかって一桁の数をかぞえること自体はかんたんで、だれでもできることかもしれません。けれども、
「タイルを6こ、バラバラにならべましょう」
「バラを5こ取って、5のかんづめタイルに取りかえましょう」
「5のかんづめタイルのうち、3だけ指で隠しましょう」
 などの指示がなされると、とたんにまわりをきょろきょろしたり、めちゃくちゃなことを始めたりします。「子どもの性格だから」ではすまされない、とても重大なことだと思うのです。

 そこで、教室の学習・生活のどんな場面においても、明確なことばで指示をすること、子どもたちがそのとおり的確に行動できているかたしかめることを、いつも心がけているのです。

*初出『日刊ひげうさぎ』(1993年度1年1組学級通信)No.045-1993-06-10


web『たまてばこ』 No.411 2003-06-28-Sat


指示の三段階進化論

たいした勉強してないが 3

 “頭づくり”“身体づくり”とはどういうことか、二つ目の具体例について書きます。

 前号で、
《指示のことばを的確に聞きとり、そのとおりに行動できること》
 の大切さを力説しました。
 そこをとくに強調して書いているので、読みようによってはつぎのような危惧を持たれる方がおられるかもしれません。
 その危惧とは、
「あまりに指示ばかりしていると、指示がないと行動できない“指示待ち人間”になってしまうのではないか」
 というものです。
 指示を与えればそのとおりに行動するが、指示がなければ動くことができない。ロボットと同じですね。

 これには二つの答えが用意してあります。

 ロボットでもなんでもいいから、とにかく《指示のことばを的確に聞きとって行動できる》ようになってほしい、というのが第一の答えです。そこまで言わなければならないほど「指示がとおらない」現状なのです。

 第二の答えが本号のテーマにかかわるもので、
《のちのち指示なしで行動できるようになるために、こまかなことまでいちいち指示をしている》
 というものです。
 第一が“開き直りの論理”とすれば、こちらは“逆説の論理”です。


 つぎの三つの指示をご覧ください。

  1. 廊下のフックから体操服を取ってきなさい。
  2. 今週の体育は今日で終わりなので、木曜日だけれども体操服を持ち帰ります。廊下のフックから取ってきなさい。
  3. 今日は木曜日ですが、持ち帰ったほうがいいものがあります。それを考えて用意しなさい。

 どれも「廊下のフックから体操服を取ってくる」という同一の行動を指示していますが、言い方がちがっています。
 Aが「行動」だけを指示しているのにたいして、Bは「趣意」を説明したうえで「行動」を指示しています。さらにCでは「趣意」を説明しただけで、「行動」は子どもにまかせています。
 AよりもB、BよりもCのほうがレベルの高い指示です。これを「指示の三段階進化論」と言います(ウソです)。

 一年じゅうAタイプの指示ばかりしているならば、「指示待ち人間化」の危惧はそのとおりになるかもしれません。しかし、BやCのタイプの指示ならば、子どもは頭をはたらかせて行動します。なぜその行動をしなければならないのか、なぜその行動が望ましいのか、趣意(=理由・目的)を理解したうえで行動するのですから、子どもは知的になります。「指示→行動」ではなく、「指示→思考→行動」というパターンができるからです。

 こうしてB、Cタイプの指示を聞いて行動しているうちに、いちいちこまかい指示を与えられなくても、その場の状況を見とり、自分で判断して適切な行動がとれるようになる、というわけです。


 「段取り」ということばがあります。「ものごとや仕事の順序・方法を定めること」と辞書には書いてあります。
 「指示なしで適切な行動がとれる」というのは、「段取りをつけて仕事(行動)ができる」と同じことだと思います。

「これをするためにはあれが必要だ。だからいまこの行動をとろう」

 このようなことが、これから出てくる“むずかしい勉強”を習得するための“頭づくり”“身体づくり”につながるわけです。
 教室でいまやっていることは、内容はともあれ、やはり“たいした勉強”なのです。

*初出『日刊ひげうさぎ』(1993年度1年1組学級通信)No.046-1993-06-11


web『たまてばこ』 No.416 2003-07-03-Thu


折り紙と“学ぶ姿勢”

たいした勉強してないが 4

 現在の1年生の勉強が、内容はともかく“頭づくり”“身体づくり”という意味でやはり“たいした勉強”であることを、

  1. 指示のことばを聞き分けてそのとおりに行動できること
  2. 指示なしで適切な行動がとれる(=段取りがつけられる)こと
 の2点にわたって具体的に書いてきました。

 本号では、3番目の具体例をあげます。


 つぎのような興味深い報告があります。

 子どもに折り紙で鶴を折って見せたとき、2つのタイプが見られる。どちらかが日本の子どもで、どちらかがカナダのヘヤーインディアンの子どもである。
  1.  鶴を折って見せると、「もう一つ折ってくれ」といってよく見ていて、「紙をちょうだい」という。紙を手にすると、いろいろやってみて、自分で「これでできた」と思った時、見せにくる。

  2.  折るところを見ていたのに、「初めにどうするの」「もっとゆっくり折って」「これでいい?」「教えてよ」とたずねる。

*上の引用は『公立学校はよみがえる』(水野茂一/朝日新聞社)より
*原典は『子どもの文化人類学』(原ひろ子/晶文社)


 どちらが日本の子どもでしょうか。Bです。お心あたりがありますか?


 教室でも大多数の子がBの行動様式を見せます。Aのような学び方をする子はごく少数で、天然記念物的存在です。

 たとえば、図工で教科書の「よく飛ぶ紙飛行機」を折ったときに、持っている紙をぼくにつきだして、
「どうやるのー」
 とたずねてくる子が少なからずいました。

 このときは親切ごころをだして、まわりに子どもを集めてひとつずつ順に折り方を教えていきましたが、途中で折れなくなった何人かは、
「つまんない。やーめた」
 と、いともあっさり脱落して、よそへ行ってしまいました。

 「こりゃ、日本の子どもだな」と思っていたところへ、ある子が、
「できた。これでいい?」
 と、自分で教科書の設計図を見て折った紙飛行機を持ってきました。これぞヘヤーインディアン!

 みごとに対照的な、ご紹介した本そのままのできごとでした。


 縄跳びの「足切り」という技を教えたときにも同様のことがありました。

 「足切り」をするには、まず縄を結ばなければなりません。これができずに、
「結べなーい。やってー」
 とあまえた声を出す子のなんと多いこと。

「自分でやんな」
 とそっけなく突き放すとと、
「やーめた」
 ドテッと地べたにすわりこんで、砂いじりです。


 先述の本によれば、ヘヤーインディアンは“学ぶ”ということを、
《自分で観察し、やってみて、自分で修正することによって、ものを覚えること》
 と考えているのだそうです。

 「生きる力」にもつながるこういう“学ぶ姿勢”を身につけてほしいので、
「ぼくは不親切な先生です。イジワルだから教えません。自分で考えなさい」
 と、いつも公言しています。

*初出『日刊ひげうさぎ』(1993年度1年1組学級通信)No.047-1993-06-14


web『たまてばこ』 No.423 2003-07-10-Thu


宣言

たいした勉強してないが 5

 「たいした勉強」ということばにこだわって始めた連載も、今回で5回目になります。いくら“いいこと”が書いてあっても、そろそろ飽きられるころかもしれません。これでいちおうのしめくくりとします。


 これまでの4回分を要約すると、つぎのようになります。

《いまの1年生の勉強は“たいした勉強”ではないのか?》

  1.  大人にはかんたんに思える学習内容も、1年生にとっては“たいした勉強”である(第1回)。

  2.  かりに内容が“たいした勉強”ではないとしても、やっているすべてのことが、これからのための“頭づくり”“身体づくり”をしているという意味で、やはり“たいした勉強”である。
     具体的には、つぎの三つの意味がある。
    1. 指示を聞き分けて行動できるように(第2回)
    2. 段取りがつけられるように(第3回)
    3. あまえずに、自分から挑戦してやってみるという“学ぶ姿勢”を身につけるように(第4回)

 こうしてまとめてみるとわれながらスッキリとした論旨だなぁ、なんて自画自賛したりして...いや、要約しないと理解されない文章は、ほんとうは悪文なのかもしれません。


 最後に強調しておきたいことがあります。

 クラスの子どもの事例もあげながら、こういうことができない、あのようなタイプは問題だ、とずいぶん書いてきました。
 これは、けっして「そういう子はダメだ」という趣旨で書いてきたのではありません。はじめから完璧にできる子ならば、それこそ学校は必要ありませんからね。
(もっとも、どれもまるで...という子には、それはそれでかなり困るところもあるのですが)

 連載の趣旨は、
「1年間にわたるクラスでの学習・生活をとおして、先の〜のような子どもに育てていきたいが、現状はこれこれしかじかである。なんとか解決すべく、あれこれの手だてをとっている。ご理解いただけたら、ご家庭でもお子さんとの対応を省みて、変えるべきところは変えていただきたい」
 となります。
(小さいころからこんなふうに育ってきたら、これほど苦労しなくて済んだだろうなぁというグチも、ちょっとだけ含みながら...)

 上は、
「おあずかりしたお子さんをクラスの中でこう育てていきたい」
 という担任としての宣言でもあります。

 言うからには妥協はしません。それが“厳しい”と受けとられることもありえますし、その覚悟はしています。
 もし、
「そんな子にならなくていい」
 と思われるのなら、“適当に”やります(←ワッ、過激なことば)。


 8日の保護者会のときに、
「先生の好きなタイプの子どもは?」
 という質問がありました。

 いくつかのお答えをしたのですが、どれもめざす理想の子ども像である「自律&自立」をいろいろな側面から言ったものです。「これ以外のタイプはきらい」という意味ではありませんので、ご心配なきよう、念のため。

*初出『日刊ひげうさぎ』(1993年度1年1組学級通信)No.048-1993-06-15


web『たまてばこ』 No.433 2003-07-20-Sun